【地元再発見】福山市・駅家町の歴史に迫る
銀と馬と古墳と――交通の交点に生きたまちの記憶
駅家町って、“駅”じゃないの?
福山市の中でもユニークな地名をもつ「駅家町(えきやちょう)」。 一見すると、JRの駅がある町のように思えますが、その由来は古代にまでさかのぼります。
駅家(うまや)とは、奈良・平安時代に整備された官道沿いの施設で、馬を継ぎ立て、使者や官人が休息する国家公認の中継地点。 約16kmごとに設置され、交通・通信の要衝として機能していました。
『福山市の地名』(福山市史編さん室)によれば、「駅家」の名は、まさにこの古代の宿駅制度に由来しているとのこと。
銀が通った道──石見銀山街道と駅家町
江戸時代、日本経済を支えた石見銀山から産出された銀は、石州街道(銀山街道)を通って運ばれました。 駅家町はその経路上にあり、宿場町として賑わった歴史をもっています。
- 石見銀山から尾道・鞆の浦を結ぶ物流ルート
- 道沿いには今も残る石碑や地蔵尊
- 道幅の狭さやカーブに、かつての街道の名残
この町は、人と物資、そして時代をつなぐ交差点だったのです。
※ 銀山街道に関する詳しい歴史は備陽史探訪の会の記事でも紹介されています。
“駅家”という地名が生まれるまで
明治初期の地租改正で、長和・服部・江良・万能倉などを含むエリアが「駅家村」としてひとつにまとめられたことがきっかけで、現在の「駅家町」という地名が誕生しました。
この名前は、かつての「駅家制度」がこの地にあったことを尊重し、地域の誇りと歴史の証として選ばれたといえるでしょう。
太古の証──駅家町と古墳文化
駅家町周辺には「吉田古墳群」「長岡古墳群」など多数の古墳が点在しており、古代から人々が住み文化が育まれてきたことがうかがえます。
古墳の形状や副葬品の発見からも、交通と文化の要衝としての性格がよく表れています。
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服部大池──命の水がつなぐ暮らしと歴史
駅家町北部にある「服部大池」は、江戸時代初期に築造された農業用ため池。 干ばつ・洪水対策の一環として整備され、駅家地域の農業と命を守ってきた貴重な水源です。
現在は、灌漑用の機能に加えて、桜の名所や野鳥観察のスポットとしても人気。地域に根ざした景観資源でもあります。
今を生きる駅家町──子育て世代にもやさしい町
交通インフラとしては、JR福塩線・井原鉄道の交差点という利便性の高い立地。 自然と住宅地が共存し、ファミリー層に人気の子育てエリアとしても注目を集めています。
昔の駅家が「人と物をつなぐ場」だったように、今の駅家町もまた「家族と地域をつなぐ場」として進化を続けています。
まとめ:古代から続く“つなぐ町”駅家
駅家町は、古代の駅制に始まり、江戸時代の銀の流通、そして現代の暮らしやすさに至るまで、常に人と人、時代と時代をつなぐ町でした。
子育て世代の目線から見ても、「便利さ」と「歴史・自然の豊かさ」をあわせ持つこの町は、再評価すべき価値が詰まっています。
ぜひ一度、駅家町を“歩いて感じて”みてください。
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